望月杏奈
私の体と心のあいだには何かが存在する。
望月杏奈
卵の内側にある薄い膜のような、そんなもの。
望月杏奈
人と言葉を交わすのは生来苦手で、そう意識する度に私の体は言葉を見失った。
望月杏奈
心はそれをぼんやりと眺め、きっと私はおかしいのだと他人事のように考える。
望月杏奈
私は、私自身の体と心が乖離する、この感覚が疑問だった。
望月杏奈
何故そのように感じるのか。「正常な」人間には存在しない感覚なのか。
望月杏奈
しかし知っていればどうにかなるものでもなく、どうにかできないからおかしいのだ。
望月杏奈
体は挙動不審に、心は泰然自若に。そのように私は存在していた。
望月杏奈
テレビをつけると中年男性の顔が映し出された。
望月杏奈
14年前の、放火殺人の罪に問われた囚人だった。
望月杏奈
ギャンブルの借金苦に喘いで金融機関へ押し入り、放火して社員を死なせた。
望月杏奈
そんな男の死刑が、先日執行されたとのことだった。
望月杏奈
テレビを消した。
望月杏奈
母は人と会話した後、囁くように自分の発言をくり返す癖があった。
望月杏奈
その事を母に訊ねると、わずかに目を見開き、失礼がなかったか確認してるのだと答えた。
望月杏奈
その時はなんとも思わなかった。それ自体、忘れていた。
望月杏奈
ある日、友人からの電話を切ったあと、小声で言葉を反復する自分に気がついた。
望月杏奈
瞬間、母の表情が蘇り、母の言葉が耳の奥に響いた。
望月杏奈
それを複雑性音声チックと呼ぶと知るのは、ずいぶん後のことだった。
望月杏奈
ヒトは死ぬとすぐに薄い膜のような淀みが目に生じると聞くが、本当だろうか。
望月杏奈
閉め切った部屋の窓に死刑囚の顔が浮かびあがる。
望月杏奈
こんな考えは「正常な」倫理観とは異なるのかもしれない。それでも私は――
望月杏奈
その死刑が執行されたと聞いて、可哀想だと思ったのだ。
望月杏奈
人生におけるたった一度のミスで大衆から死を望まれる、境遇を。
望月杏奈
確かに彼の行ったことはとても恐ろしいのかもしれない。
望月杏奈
それでも私がそう感じてしまう理由。
望月杏奈
恐らく、同じ行動を取る自分が明確にイメージできてしまうからなのだと思う。
望月杏奈
一攫千金を得ようとする貪欲さが。マスクを忘れる迂闊さが。
望月杏奈
要求を拒否されて脳内が真っ白になり、自分が何をしているか分からなくなる瞬間が。
望月杏奈
あまりにも、自分と重なってしまうのだ。
望月杏奈
つまりそれは、起こりうる将来の自分への予防線であり、正当化でもあり。
望月杏奈
だからその時、そう感じたという事実を、私は忘れないようにしておこうと思った。
望月杏奈
自身が抱える狂気を常に意識することは、不適合者が社会に紛れ込むための誓約なのだから。
望月杏奈
マーティン・セリグマンの実験は私にひとつの可能性を示唆した。
望月杏奈
犬を入れた檻に電気ショックを与える。犬はそれから逃れようと檻を引っかく。
望月杏奈
それをいくらか繰り返し、ある時、檻の扉を開けてやる。
望月杏奈
犬はすかさず檻を抜け出す。その犬は苦難を乗り越えることを学ぶ。
望月杏奈
以降、いくら電気ショックを与えても、その犬は屈することなく檻を引っかき続けた。
望月杏奈
ところが、そうではない犬もいた。
望月杏奈
檻の隅で丸くなり、身を流れる苦痛に何の関心も示さなかった。
望月杏奈
犬は知っていた。自分の意志でここを抜け出すことは不可能だと。
望月杏奈
早い話、諦めていたのだ。もはやこの犬は、扉を開けても外に出ることはなかった。
望月杏奈
セリグマンはこれを「学習性無気力」と名付けた。
望月杏奈
私を取り巻く意識とはそのようなものかもしれない、しかしそれが全てとも思えなかった。
望月杏奈
知識とは自分の世界を開く鍵であるが、使い道のない鍵はガラクタにすぎない。
望月杏奈
私が手当り次第に試し、放り捨てた鍵たちの放つ、無機質な輝き。
望月杏奈
それらがひどく目にちらついて不愉快だった。
望月杏奈
分からなかった。
望月杏奈
何故そのように感じるのか。何故私の心はこれほどに無気力なのか。
望月杏奈
私は私を知らない。
(台詞数: 50)