望月杏奈
この国は地獄だ。
望月杏奈
幾度も災厄が重なり、このままではやがて崩壊するだろう。
望月杏奈
疫病、冷害、さらには残忍な犯罪も相次いだ。
望月杏奈
国民の信頼を失い、年老いた国王はその座を退く。
望月杏奈
その昔、私の母は王家に仕える召使いだった。
望月杏奈
身寄りのない母はいつも私の手を引いて、王宮へ向かった。
望月杏奈
私は母の背中を追いかけ、ぼろ雑巾を絞り、箒を両手で抱えて走った。
望月杏奈
朝は陽が昇るより早く、夜は深い瑠璃色に染まるまで。
望月杏奈
今思えば、私は手伝いというより、足手まといだったのだろう。
望月杏奈
母はよく私の頬を打った。
望月杏奈
どこからともなくある噂が流れ始める。
望月杏奈
一連の災害は「鬼」がもたらしたものだというのだ。
望月杏奈
それは瞬く間に国中へ広まり、鬼退治を求める声が王宮にも届く。
望月杏奈
つい先日、王位を継承した若い国王にとって、これはまたと無い機会だ。
望月杏奈
鬼を倒して災厄が去り、民は生活を取り戻す。国王は信頼を得る。
望月杏奈
あまりに分かりやすい筋書きだが、悪くない。大臣たちはこぞって国王に進言する。
望月杏奈
私は幼い頃から嘘が得意だった。
望月杏奈
それは生きるための術。同情でも買わねばその日の夕飯にも事欠いた。
望月杏奈
幸いにも、薄汚れた服を着た少女は哀れみを誘うには十分だった。
望月杏奈
ある日、王宮の中で同じぐらいの年の男の子に出会った。
望月杏奈
私と違って小綺麗な格好をしており、暇を持て余していたのか、よく話しかけられた。
望月杏奈
その男の子は余りに純粋であるから、私は得意な嘘でだまして楽しんでいた。
望月杏奈
たぶん、生まれて初めての友だちだったと思う。
望月杏奈
その事を嬉々として母に話すと、また頬を打たれた。
望月杏奈
その男の子は国王の息子であった。
望月杏奈
若い国王は鬼の情報に懸賞金をかける。
望月杏奈
本当はみんな分かっている。馬鹿馬鹿しい噂だと。
望月杏奈
鬼など居ない。天災と、それに誘発された人災の数々に過ぎないのだ。
望月杏奈
だが親しい人が次々と命を落とすなか、それを信じることを誰が責められただろうか。
望月杏奈
誰のせいでもないはずの悲劇。その責任を、誰かに押し付けられるなら。
望月杏奈
周囲を囲む王国軍に目をやる。
望月杏奈
もう一つの噂を確かめるために彼らはやって来た。
望月杏奈
荒野の中にぽつりと立つ家、そこに鬼は住むという噂――もっとも、それは私が流したのだが。
望月杏奈
母が若くして亡くなって以来、私が王子と会うことはなかった。
望月杏奈
兵に武器を構えさせたまま、国王が前に出る。一国の王たる高貴さを纏いながら。
望月杏奈
私の「王子のご友人」としての役目はとうに終わった。
望月杏奈
そんな私に残された、たった1つの使命。だから私は最後の嘘を紡ごう。
望月杏奈
喉につっかえる。口角が下がる。それでも吐き出す。
望月杏奈
――私が鬼だ
望月杏奈
水を打ったような静寂が広がる。
望月杏奈
もう戻れない。一瞬が永遠のように感じた。
望月杏奈
その時鋭い音が響き、私は尻餅をつく。何が起きたか分からなかった。
望月杏奈
顔をあげると、腕を振り切った国王の姿。
望月杏奈
彼は軍勢を振り返り、高らかにこう叫んだ。
望月杏奈
――見よ、私が鬼を倒したぞ!
望月杏奈
――これからは皆で共に手を取り、新たな時代を築こうではないか
望月杏奈
そして差しのべられた手を見た途端、私は打たれた頬が痛くて、子供のようにわんわん泣いた。
望月杏奈
国王は膝を付いて、地に落ちた私の手を拾い上げる。
望月杏奈
ごっこ遊びはもうおしまい。ここから始まるのはつまらない、ただ残酷な現実。
望月杏奈
それでも私は、この涙を止めることができなかった。
(台詞数: 50)