七尾百合子
『ごめんなさいね、こんな忙しい時期に』
七尾百合子
古く暗い廊下に2人分の足音が響く。私は、いえ、と小さく答えた。
七尾百合子
『私はいいって言ったんだけど、高木さんが遠慮しなくていいからって』
七尾百合子
……社長のことだ、きっとティンと来たのだろう。もうすぐ武道館だというのにのん気なものだ。
七尾百合子
『この部屋よ。あとでお茶でも飲みましょう。それじゃあ、よろしくお願いね』
七尾百合子
おばあさんがドアを開けると埃っぽい空気が鼻をついた。図書館の書庫と同じよく知っている空気。
七尾百合子
それなのに、なぜか私は、懐かしさを感じてしまった。
七尾百合子
『……あー、七尾クン、ちょっといいかね』
七尾百合子
武道館まで一か月を切った頃、自主レッスンへ向かおうとした私を社長が呼び止めた。
七尾百合子
『明後日、行ってもらいたいところがあるんだがね。ああ、レッスンは休んでもらって構わないよ』
七尾百合子
隣にいる昴さんと静香ちゃんが顔を見合わせている。たぶん私も変な顔をしている
七尾百合子
『先日、私の友人が亡くなってね。その奥さんが遺品の整理中なんだが、友人は大の本好きでね。
七尾百合子
『彼の本をどうするかで奥さんが困っているのだよ。そこで七尾クンに手伝って欲しいと思ってね』
七尾百合子
ほら、キミも本が好きだろう、と社長は付け加えた。プロデューサーは何と……と私は聞き返した。
七尾百合子
『その点は問題ない。既に彼の了解は得ている。頑張ってくれたまえ!』
七尾百合子
……ため息で我に返る。社長もプロデューサーも今がどういう時期か分かっていないのだろうか。
七尾百合子
お披露目会は成功したが、まだまだレッスンが足りない。正直、こんなことをしている時間はない。
七尾百合子
次々と本を手に取り、パラパラとめくりながら頭の中で愚痴をこぼす。
七尾百合子
頼まれた作業はとっても単純だった。段ボールに入った本から面白い本を取り分けるだけ。
七尾百合子
偶然にも読んだことのある本ばかりだったので分別は順調に進んでいく。
七尾百合子
ただ、ほとんどの本を面白いとしているので、はたして仕事になっているかは疑問だ。
七尾百合子
苦笑しながら本をめくると、表紙裏でふと目が止まった。鉛筆で斜めに書かれた「Z」の文字……
七尾百合子
気になって他の本の表紙裏をめくってみると全部の本から同じ落書きが見つかった。
七尾百合子
目の前の本棚に目を移す。持ち主に大事にされたことを自慢するかのように本が並んでいる。
七尾百合子
他のページには落書きどころかメモもない。……いったい、誰がこんなことを?
七尾百合子
時の止まっていた部屋に柱時計が三度音を響かせた。背後のドアがギシリと音を立てる。
七尾百合子
『百合子ちゃん、そろそろ時間でしょ?帰る前にお茶にしましょう』
七尾百合子
リビングに足を踏み入れるとダージリンの優しい匂いが迎えてくれた。
七尾百合子
『残りは気が向いたらでいいから。本番前にありがとうねぇ。このあとはレッスンなんでしょう?』
七尾百合子
私は首を縦に振り、早速カップに口を付けた。社長が休んでいいと言っても私にそんな余裕はない。
七尾百合子
『あの量を分けるのは大変でしょ。私は本を読まないからよく分からなくてねぇ。助かるわぁ』
七尾百合子
私はそんなことないです、と小さく返事をし、全部読んだことがある本だったので、と付け加えた。
七尾百合子
『そうでしょうね。だって、あの本は全部、あの人があなたに影響されて買った本なんですから』
七尾百合子
私はカップから口を離し、顔を上げた。おばあさんの目は笑っている。
七尾百合子
『あの人はあなたのコラムが大好きでね。あなたが紹介した本を次々に買っていったの』
七尾百合子
『保管するときなんて、わざわざあなたのイニシャルを書いて他の本と区別できるようにしてたわ』
七尾百合子
表紙裏の走り書き。あれは「Z」ではなくて私のイニシャル、「N」だったのか。
七尾百合子
あれ?だったらどうして分別する必要があるのだろう。おばあさんの顔をのぞきこむ。
七尾百合子
『……ごめんなさい。実は分ける必要はないの。ただ百合子ちゃんにここへきて欲しかっただけ』
七尾百合子
『あの人の遺言だったのよ。武道館に行けないけど応援したい。百合子ちゃんの力になりたいって。
七尾百合子
『大好きな本を読めばリラックスする。だから、百合子ちゃんにここの本を読ませてくれって』
七尾百合子
でも、普段から読んでる人に効果はないわよね、とおばあさんがクスリと笑う。
七尾百合子
……そういえば、最後に本を開いたのはいつだっただろう。確かお披露目会の……。
七尾百合子
社長は、気付いていたのだろうか。焦ってばかりの私が全然本を読めていないことに……
七尾百合子
おばあさんが椅子を引き、ポットを軽く上げた。私は首を横に振り、すっくと席を立った。
七尾百合子
『もう行くのね。武道館、私も見に行くから。レッスン頑張ってね』
七尾百合子
私は首を横に振った。そして怪訝な顔をするおばあさんに「ありがとうございます」と頭を下げた。
七尾百合子
……私は埃っぽくて懐かしい部屋に戻ってきた。目の前には私が紹介してきた本が積まれている。
七尾百合子
確かに武道館まで時間はない。でも、今、ここで本を読む時間はきっと私に必要な時間だ。
七尾百合子
私は仕分けの終わった本に手を伸ばし、表紙裏のイニシャルをそっと指でなでた。
(台詞数: 50)