北沢志保
弱いものいじめが気に食わなかった。だから小学生だった私は、黒猫をいじめる子供を追い払った。
北沢志保
子供がどこかへ行くと、黒猫は、『あの子』は私についてきた。
北沢志保
あの子は家の中には決して入ってこなかった。
北沢志保
まぁ、うちには猫を飼う余裕なんてないのだから好都合ではあった。
北沢志保
ただ、私が小学校や買い物に出掛けたりすると、どこからともなく現れて、前を歩き始めた。
北沢志保
それは弟といる時も同じだった。弟はにゃーちゃんと呼んでかわいがった。
北沢志保
しかし、母と外出するときだけは、なぜか姿を現さなかった……。
北沢志保
季節は巡り、私は中学生になった。
北沢志保
『ごめんね、入学式に出られなくて』
北沢志保
私だって子供じゃない。母が私たちのためにどれだけ頑張っているかは知っている。
北沢志保
新しい制服に身を包み、家を出る。
北沢志保
それに、私は入学式に一人で行くとは思っていなかった。
北沢志保
「さぁ、行きましょう」
北沢志保
いつものように現れたあの子を先頭に、私は新しい学校へ向かった。
北沢志保
また、季節は巡り、私は一つ歳をとった。
北沢志保
桃色に染まった公園のベンチに座り、一枚の紙きれを指先でいじっていた。
北沢志保
「アイドル、か……私の何が良かったのかしら?でも……
北沢志保
私に何ができるか、試してみるのもいいわよね」
北沢志保
隣に座って喉を鳴らしているあの子に問いかける。
北沢志保
あの子は、にゃおんと答えてくれた。
北沢志保
季節は進んで夏になる。駅前のアスファルトはしっとりと濡れていた。
北沢志保
あの子は駅の庇の下で私を待っていた。雨に濡れないよう、抱え込んで傘の中に入れる。
北沢志保
「今度、ユニットバトルに出るの」
北沢志保
すれ違う人に聞こえないよう、あの子にだけ聞こえる大きさで話す。
北沢志保
「矢吹さんと亜美との三人で。ねえ、あなたも見に来てくれる?」
北沢志保
あの子は小首をかしげ、ぴょんと私の腕を出た。
北沢志保
「……見に来てくれると心強いな。ちゃんと、二人と合わせられるか、不安だから」
北沢志保
あの子は動きがとまった私の脚に、顔をこすりつけた。
北沢志保
季節は巡って、冬になる。年が明けてまた私は一つ歳を重ねた。
北沢志保
「今度映画の撮影があるの。可奈と一緒に出演するんだけど……」
北沢志保
劇場での話を腕の中にいるあの子にしながら、家路に着く。
北沢志保
「私、毎日が楽しいの。アイドルになって本当に良かった。あの時、賛成してくれてありがとう」
北沢志保
あの子に微笑みかけて、いつものように玄関の前であの子を降ろそうした時だった。
北沢志保
『今日は早いのね、志保』
北沢志保
振り向くと母がいた。母を見たあの子は、私の腕からするりと抜けて、どこかへ走り去っていった。
北沢志保
私はあの子を驚かせた母を睨んだ。しかし母は茫然とし、目尻から涙を一筋こぼすだけだった。
北沢志保
その日以来、あの子は私の前に姿を現さなくなった……。
北沢志保
――時は過ぎ、私は今、武道館の舞台袖に立っている。
北沢志保
『ねぇねぇ、志保ちゃん、今日はその猫さんも連れていくの?』
北沢志保
『いやー、しほりんはやっぱり可愛いですなぁ』
北沢志保
私の両隣には可奈と亜美がいる。
北沢志保
あの子がいなくなった日、母は私が身につけている猫のキーホルダーを手にとってこう言った。
北沢志保
「今の猫、お父さんが買ってくれたこのキーホルダーにそっくりだったでしょ」
北沢志保
私は、母の言いたいことがよくわからなかった。
北沢志保
ただ、あの子が去るとき、小さな身体に、大きな背中を見た気がした。
北沢志保
「何言ってるの。この子を付けたままステージで踊れるわけないでしょう?」
北沢志保
私は舞台袖の棚の上に黒猫のキーホルダーを置く。
北沢志保
「今日も私を見守っててね」
北沢志保
黒猫にぼそりと呟き、そっと頭を撫で、可奈と亜美のもとへと走った。
北沢志保
私は踊って歌う。仲間とともに。どこかで見ている『あの子』に届くように。
(台詞数: 50)