北沢志保
介護施設を訪れた。
北沢志保
ここには今の日本を築いた人たちが暮らしている。
北沢志保
彼らは何を願うだろう。次の時代を担うひとりとして、知っておく必要があると思った。
北沢志保
少しひんやりとした空気を感じながら、私は足を踏み入れる。
北沢志保
企画について説明されたのは2週間ほど前。
北沢志保
七夕かざりの短冊を集めてきてほしいと頼まれた。
北沢志保
場所も方法も各自自由、ただし素性を明かす場合は必ず保護者同伴とのこと。
北沢志保
体のいい丸投げだ。律子さんたちは年少組の付き添い。母の手を煩わせる気にもならない。
北沢志保
ま、ひとりでやりますか。
北沢志保
電話をかけると意外にも施設の方は快諾してくれた。
北沢志保
介護は多忙と聞くが、入居者へのイベント性を重視した結果か。
北沢志保
何にせよお人好し集団なのだと思う。悪い意味ではなく。
北沢志保
当日、来意を告げると笑顔で迎えられた。
北沢志保
入居者の前であいさつを済ませ、ひとりひとりに短冊を手渡す。
北沢志保
喧騒を増していく室内。各々が願いごとに思いを馳せている。
北沢志保
長い人生を送ってきた彼女らが、まるで少女のように、無邪気に。
北沢志保
その中で、ひとり黙想する老爺がいた。
北沢志保
しわが深く刻まれ、口は神経質に結ばれている。
北沢志保
彼は静かに目を開き、したためた。
北沢志保
『同胞たちに謝りたい』
北沢志保
私はスタッフさんに近寄り、耳打ちした。
北沢志保
──────。
北沢志保
満足げにハトが飛び立った。
北沢志保
パン屑を握る老爺の手はひどく弱々しい。
北沢志保
木々の照り返す陽光に目を細め、老爺は訥々と語る。
北沢志保
彼はシベリア抑留者のひとりだった。
北沢志保
終わったはずの太平洋戦争に囚われ、過酷な強制労働の末、多くの戦友を亡くした。
北沢志保
良い人から死んでいく時代だった。にも関わらず生き延びてしまった。
北沢志保
彼はそのことを己に責め続けた。苦痛は増すばかりだった。
北沢志保
現世とは、地獄に過ぎない。
北沢志保
老爺は黙り込んでしまった。
北沢志保
何かを言わなければならない気がした。
北沢志保
恐らく私の励ましなど求めていないのだろうけれど、ここで黙るのは何かが違うと思った。
北沢志保
どれほど酷い人生でも、生きていてさえくれれば、同じくらい尊く感じて。
北沢志保
尊く感じるというよりも、たぶん絶対的に、尊いんだって。
北沢志保
それを伝えたいと強く願った。
北沢志保
「私、アイドルやってるんです」
北沢志保
老爺は怪訝そうにこちらを見たが、やがて、
北沢志保
そうか、と呟いた。
北沢志保
そこからの私は、一方的に話し続けた。
北沢志保
私に老爺の願いは叶えられない。
北沢志保
それでも、いまを作ったのは老爺たちで、それなりに楽しいことも起きたりして。
北沢志保
それを話すくらいしか、伝え方が浮かばなかった。
北沢志保
──────。
北沢志保
紙袋を揺らす帰り道。
北沢志保
中にはいくつもの夢が詰まっている。他の皆は順調だろうか。
北沢志保
見上げる夜空、笹の葉。静かに揺れる短冊を思い、少しだけ歩幅が広くなる。
北沢志保
夏の陽は高く、遠い。
(台詞数: 48)