北沢志保
鏡の前でくまなく衣装をチェックする。
北沢志保
髪飾りは付けた。生地のほつれは無い。胸のリボンも結んだ。
北沢志保
「プロデューサーさん、後ろ姿は大丈夫ですか?」
北沢志保
不本意だけど、これに関しては頼らざるを得ない。
北沢志保
なにやら通話中のプロデューサーさんはこちらに目線を向け、親指を立てる。
北沢志保
少し気取った仕草がまったく様になってない。
北沢志保
この人の頼りないオーラはもはや才能だ。
北沢志保
前だけ見てろ、後ろは俺が付いてる。というのが口癖みたいだけど。
北沢志保
だからこそ目が離せないの、分かってます?
北沢志保
呆れに肩をすくめ、座って出番を待つことにした。
北沢志保
目を閉じて思い浮かべるのは、いつも同じ記憶。
北沢志保
ソファーに並んで座っている時、お父さんが突然言ったのだ。
北沢志保
──志保、かくれんぼをしようか。
北沢志保
──父さんが隠れるから、もういいよーって言うまで目を閉じて。
北沢志保
──うん、わかった。
北沢志保
幼い私はあまりに純朴に信じた。お父さんが立ち上がり、沈んでいたソファーが微かに持ち上がる。
北沢志保
──もういいかい。
北沢志保
──まぁだだよ。
北沢志保
お父さんの苦笑が聴こえる。仕方がないから待ち続けた。
北沢志保
しかし、いくら待ってもお父さんは黙ったままだった。衣擦れの音すらなく。
北沢志保
お父さんが消えちゃう気がした。声が聞きたかった。
北沢志保
──ねえ、もういいでしょ。
北沢志保
──もういいよ。
北沢志保
もどかしく開いた視界。でもまたすぐに奪われた。
北沢志保
私を包む、温かくて大きな手。
北沢志保
少しくすぐったくて身をよじるけど、お父さんは離してくれない。
北沢志保
くすくすと声が洩れて、どちらからともなく笑い合った。
北沢志保
お母さんのシチューの匂いが漂ってきて、窓の外では小花が揺れていて。
北沢志保
なぜか分からないけど、平和だな、って思った。
北沢志保
それが私の一番の思い出、だったはずなのに。
北沢志保
隣に立つ人の気配に目を開ける。
北沢志保
「ねえ、プロデューサーさん」
北沢志保
いつからだろう。
北沢志保
「今日のライブ、一生の思い出になると思います……だから」
北沢志保
過去にすがらずに歩けるようになったこと。
北沢志保
「一応、感謝しておきます」
北沢志保
この人の声を聞くと、こんなにも心が軽くなること。
北沢志保
ふいに頭をくしゃくしゃと撫でられる。
北沢志保
昔ほどは大きく感じない手のひらだけど、やっぱりくすぐったい。
北沢志保
「もうやめてよ、お……」
北沢志保
お? と聞き返すプロデューサーさん。
北沢志保
「お、怒りますよ」
北沢志保
おお恐い恐い、なんておどけた声。
北沢志保
うまく取り繕えただろうか。
北沢志保
この人ももうちょっと頼りがいがあればなぁ、なんて。
北沢志保
素直じゃないな、私。
北沢志保
「では、行ってきます」
北沢志保
どこからともなく、もういいかい、と聞こえた気がした。
北沢志保
まぁだだよ、と小さく呟いてから私はステージへと駆け出した。
(台詞数: 49)