矢吹可奈
「え、ええー!?」
北沢志保
あまりの声の大きさに思わず耳を塞いでしまった。
北沢志保
「……うるさい」
矢吹可奈
「ご、ごめん」
矢吹可奈
「でもでも、店長さんが辞めちゃったなんて……」
北沢志保
「……」
矢吹可奈
「このお店、どうなっちゃうの……?」
北沢志保
「一応、私にくれるとかなんとか言ってたけど」
矢吹可奈
「そ、そうなんだ!」
矢吹可奈
「……って、え?」
北沢志保
そうなるだろう。いくら何でも滅茶苦茶すぎる。
矢吹可奈
「じゃあ、これからは志保ちゃんが店長さんなの?」
北沢志保
「まさか。私に経営の知識なんてないし、資格だってない」
北沢志保
そもそも貰っても困る。
矢吹可奈
「店長さんの連絡先は?」
北沢志保
「知らない」
矢吹可奈
「どの辺に住んでるかとかは?」
北沢志保
「知らない」
矢吹可奈
「えー……」
北沢志保
思えば、あの人は自分の事をあまり語ろうとしなかった。
北沢志保
「……あ、そういえば」
矢吹可奈
「なになに?」
北沢志保
「初めて会った時に野望がどうとか言ってたような……」
矢吹可奈
「野望?」
北沢志保
厨房の棚を目を遣れば、小綺麗に並べられた缶詰があった。
北沢志保
「……」
北沢志保
今までどうやってお店を維持していたのだろう。
北沢志保
お客が来ない割に仕入れは欠かしていない。
北沢志保
時々ふらっと行き先も告げずに出ていっては、高そうな食材を抱えて帰ってきたりもした。
北沢志保
まあ、それらは新作メニューと称した賄いとネコさんのご飯に消えた訳だが。
北沢志保
……分からない。
北沢志保
ひょっとして、余程のお金持ちとか?
北沢志保
或いは、都合良く誰かに支援して貰ってるとか?
矢吹可奈
「……志保ちゃん?」
北沢志保
考えたところで答えなど出る筈もなく。
北沢志保
「可奈、とりあえず今日は――」
北沢志保
カランカラン。
北沢志保
不意に扉のベルが鳴る。
北沢志保
嗚呼、やはり私は断ち切れず、心の何処かで願っていたようだ。
北沢志保
今が閉店中ということも忘れて、入口まで颯爽と駆け出して、
北沢志保
言うべき言葉を――言おうとして噤んだ。
北沢志保
「こんにちは」と先に挨拶をしたのは燕尾服に身を包んだ初老の男性。
北沢志保
「あ、え、えっと……」
北沢志保
混乱する私の姿に動じず、彼は微笑み、そして丁寧に辞儀をした。
北沢志保
――。
北沢志保
多分、名乗っていたのだと思う。上手く聞き取れなかった。
北沢志保
けれど唯一、
北沢志保
水瀬。
北沢志保
その言葉だけが何故か、私の中にはっきりと残っていた。
(台詞数: 49)