矢吹可奈
「ご、ごめん」
矢吹可奈
「なんだか急に、お腹空いてきちゃって」
北沢志保
つい微笑みが零れる。腹の虫に救われた気がした。
北沢志保
「ちょうどいいわ、お菓子を作ってたの」
矢吹可奈
「あ、だから良い匂いが」
北沢志保
「Baci di dama──淑女のキッスという意味よ」
北沢志保
球状の甘味を指先で摘むと、可奈をソファーに倒した。
矢吹可奈
「ええっと、志保ちゃん……?」
北沢志保
その柔らかな髪を抱き寄せ、真っ赤な耳元でそっと囁く。
北沢志保
「食べたい?」
矢吹可奈
「う、うん。でも、その……」
矢吹可奈
「志保ちゃん、ちょっと近いかな~って……」
北沢志保
「開けて、口」
北沢志保
ためらいがちな唇に、クッキーの生地が沈んでいく。
北沢志保
「知らなかった。そこまで心配してくれてたなんて」
北沢志保
「……嬉しい」
北沢志保
貴女という存在が私に麻酔をかける。現実を鈍らせていく。
矢吹可奈
「ひほひゃん……」
北沢志保
「焦らなくていいわ。ちゃんと食べてから、ね?」
北沢志保
たった一言でいい。
北沢志保
この感情を、愛と呼んでしまえばどれほど楽だろう。
矢吹可奈
「……んっ」
北沢志保
喉が動いたのを見て、次のひと粒を唇に当てる。
矢吹可奈
「ちょっ志保ちゃ……」
北沢志保
「受け止めて?」
矢吹可奈
「んんっ……!」
北沢志保
ここからは私の番だ。
北沢志保
「私もね、可奈を助けたいの」
矢吹可奈
「……っ! 志保ちゃ──」
北沢志保
私の考えを察した可奈が暴れ始める。
北沢志保
でも、もう遅い。
北沢志保
私を押し戻そうとする力が次第に弱くなり──
北沢志保
細い腕がソファーに落ちた。
北沢志保
「ごめんね、可奈」
北沢志保
ホットミルクに仕込んだ睡眠導入剤は緊張をほぐし、急激な食欲を引き起こす場合がある。
北沢志保
可奈が私の呼びかけに応じないことを確認し、その体をそっと離して毛布を掛けた。
北沢志保
奇跡なんて言葉は無知の表れだ。
北沢志保
貴女を想う誰かが、知らない間に何かをしていて、しかし無知なその瞳は結果にのみ向かう。
北沢志保
ゆえに唐突に起きたそれを見て、人は奇跡と呼ぶのだ。
北沢志保
扉を開く。風が凪いでいる。
北沢志保
月が私を、見下ろしていた。
北沢志保
「可奈」
北沢志保
貴女は何も知らなくていい。私が可奈の奇跡となる。
北沢志保
たとえその時、隣にいるのが私でなくても。
北沢志保
そう、これは始まりだ。
北沢志保
「──良い夢を」
(台詞数: 46)