
北沢志保
可奈が私の家を訪れたのは夜も更けた頃だった。

北沢志保
その鋭い表情を見て、つい招き入れてしまった。会うつもりもなかったのに。

北沢志保
「座って。はい、ホットミルク」

矢吹可奈
「……ありがとう」

北沢志保
両手で抱えたマグカップを少し傾け、可奈は微笑む。

矢吹可奈
「元気そうで良かったよ」

北沢志保
「私が?」

北沢志保
足をぶらりぶらりとさせる可奈。そのつま先を見つめる。

北沢志保
目線を落としたまま、声だけが問いかける。

矢吹可奈
「志保ちゃん、このままでいいの?」

北沢志保
「どういう意味よ」

矢吹可奈
「事務所──クビになったって」

北沢志保
「ああ、あの報道の件ね」

北沢志保
可奈はビクリと肩を震わせる。これは私の問題なのに。

北沢志保
「選択肢なんか無いわよ。元の生活に戻るだけ」

矢吹可奈
「でも、何とかなるかもだし、私も協力する。諦めちゃ──」

北沢志保
「『エミーリア・ガロッティ』という戯曲を知っているかしら」

北沢志保
可奈を遮るように、私は言葉を紡ぐ。

北沢志保
「領主グアスタラ公はエミーリアという若い娘に恋をした」

北沢志保
「でもエミーリアには婚約者がいて、式を挙げる予定だったの」

北沢志保
「そんな彼女たちが式場に向かう途中、賊によって新郎が殺されてしまう」

北沢志保
「そこに颯爽と現れたグアスタラ公。彼はエミーリアを救出し、自分の館で保護した」

北沢志保
「新郎のことは残念だったけど、エミーリアは助かった。彼には感謝しなきゃね」

北沢志保
「でもね、全部グアスタラ公の策略だったのよ」

北沢志保
「彼が賊に新郎を襲わせ、エミーリアを軟禁した。それが真相よ」

北沢志保
「その事を知ったエミーリアの父はどうにか娘との面会を果たし、その場で──」

北沢志保
「エミーリアを刺し殺した」

矢吹可奈
「え……」

北沢志保
「こうしてエミーリアの貞操は守られた、という話よ」

矢吹可奈
「エミーリアは悪くないのに、どうして……!」

北沢志保
「愛、と呼んでしまえば楽よね」

北沢志保
可奈の視線が憐れみの色を含む。

北沢志保
そして、怒り。

北沢志保
「……私もね、疲れたのよ。このままじゃ私も事務所もダメになる」

北沢志保
俯く可奈。唇を噛むのが見えた。

矢吹可奈
「なんで……どうして信じてくれないの?」

北沢志保
「奇跡なんて不条理なものよ」

北沢志保
「絶対的な救いでありながら、望んだ通りに起こるとは限らない」

北沢志保
「それでも確かに存在すると知っているから──無駄な期待を抱く」

矢吹可奈
「それでも願うよ」

北沢志保
食らい付くように顔を振り上げる。髪が乱れるのも構わずに。

矢吹可奈
「私、バカだから。嫌なことはすぐ忘れちゃうんだ」

矢吹可奈
「でもね。辛かった練習とか、志保ちゃんと喧嘩したこととか……」

矢吹可奈
「ぜんぶぜんぶ、覚えてるよ。忘れてなんかないよ」

北沢志保
勢いよく放たれた言葉たちは次第に失速し、尻すぼみになる。

矢吹可奈
「私に何ができるかも分からない」

矢吹可奈
「それでも一緒にいて、支えられたらって思うんだ」

矢吹可奈
「だから教えてよ。私が志保ちゃんにできること」

北沢志保
やかましい程の静寂。私は何と答えたらいいのだろう。

北沢志保
口を開きかけた私。そこに間の抜けた音が響く。
(台詞数: 50)