北沢志保
いつも通り事務所の扉を開けると、見慣れた顔が私を出迎えてくれた。
北沢志保
ーーあぁ、またこの人は家に帰っていない。
北沢志保
おはようと笑いかける顔には覇気が無く、徹夜続きの瞳には私達よりも濃い化粧。
北沢志保
……体調管理も社会人の仕事ではなかろうか。そう言いたくなる気持ちをグッと堪える。
北沢志保
この人がここまで頑張る理由なんて、私達の事以外にないからだ。
北沢志保
大人しく休んでくれる人でもないので、私は黙って2人分のコーヒーを淹れる。
北沢志保
ーーありがとう。助かるよ。
北沢志保
……不意打ちで微笑むのは、正直やめて欲しかった。どんな顔をしたら良いのか分からないからだ。
北沢志保
……無精髭、剃った方が良いですよ。
北沢志保
まともに顔が見られない理由を、くだらないことに転化して、私はソファーに腰掛ける。
北沢志保
ーー事務所には、パソコンを叩く音と、台本をめくる音だけ。
北沢志保
正直、こういう時間は嫌いではない。
北沢志保
どのくらい経ったのかーー無音の時間はプロデューサーの大きな欠伸で終わりを告げた。
北沢志保
ーー悪い、志保。少し寝るから律子が来たら起こしてくれ。
北沢志保
言いながら、私と対面のソファーに倒れこむプロデューサー。
北沢志保
結局無精髭も剃っておらず、おまけにソファーで爆睡となれば律子さんからの説教は免れない。
北沢志保
寝るなら仮眠室でーーそう進言するよりも早く、プロデューサーから静かな寝息が聞こえてくる。
北沢志保
私達アイドルは舞台の上で全力を出しきるけれど、熱量だけで言えばこの人も負けていないのでは。
北沢志保
そう思えるほどに、疲れきり、体力の限界まで戦い抜いた男の人の寝顔。
北沢志保
せめて羽織るものを、と仮眠室から持ち出した毛布を一枚、静かに被せる。
北沢志保
女性のものとは違う、硬くて、ゴワゴワしてて。けれどどこか優しさを感じる髪を、そっと梳く。
北沢志保
心地良いのだろうか?プロデューサーの体の力が抜けていく気がした。
北沢志保
ーーそれなら。日頃の感謝を返す意味でも、もう少しだけ。
北沢志保
ーーそう思ったのが、マズかった。
北沢志保
突然腰に回された手は、驚きの声をあげるよりも早く私を引き寄せ、力強く抱きしめる。
北沢志保
待って待って待って。誰と間違えている?何と間違えている?
北沢志保
少しだけ力を込めても、ビクともしない。2人の間に毛布があるのがせめてもの救い。
北沢志保
携帯で助けを求めようにも、この姿を誰かに見られることが何よりの拷問だ。
北沢志保
あれやこれやと自問自答するも、答えなどあるわけもなく。諦めて体重を預けた。
北沢志保
またしても無音の空間が事務所を包む。
北沢志保
もしプロデューサーが起きていたら、私の心臓の音は絶対に聞こえているだろうけれど。
北沢志保
半ば予想はしていたけれど、数分後にプロデューサーはその手を放してくれた。
北沢志保
少しだけ乱れてしまった衣服を整え、温くなってしまったコーヒーを一口。
北沢志保
……味なんて分かるわけもない。
北沢志保
腰に残る熱にむず痒さを感じていると、階段を上る靴音が聞こえた。
北沢志保
その靴音の主は、事務所に入り私とプロデューサーを見て小さなため息を一つ。
北沢志保
仕方ない、といった顔でプロデューサーの肩に伸びた手を、私はそっと止める。
北沢志保
ーー律子が来たら起こしてくれ。その約束は守れそうにないけれど。
北沢志保
きっと今は……幸せな夢を見ていると思うから。
(台詞数: 39)