木下ひなた
『わぁ、可愛いね、桃子ちゃん』
木下ひなた
育ちゃんがテレビの自然番組を見て歓声を上げた。
木下ひなた
『イノシシの子どもって、ウリボウっていうんだね。桃子ちゃんは知ってた?』
木下ひなた
『も、もちろんだよ。それぐらい常識でしょ』『桃子ちゃんは物知りだね』
木下ひなた
育ちゃんと桃子センパイのやり取りはいつ聞いても、理由は分からないけど、ほっとする。
木下ひなた
『ねぇ、ひなたちゃんも知ってた?』育ちゃんがソファーから乗り出した。
木下ひなた
「わたしも知ってたよぅ。ばあちゃんの畑にも時々出てきたんだわぁ」
木下ひなた
『うわぁ、いいなぁ』
木下ひなた
育ちゃんの無邪気な声が事務所に響く。
木下ひなた
「でも、かわいいと思ったことは、ないかもねぇ」
木下ひなた
ぼそりと呟いたわたしの独り言は、プロデューサーの開けたドアの音にかき消された。
木下ひなた
育ちゃんと桃子センパイがレッスンに行ったタイミングで、わたしは劇場から出た。
木下ひなた
時間は早いが、今日は実家から夏野菜が送られてくる。
木下ひなた
青々としたキュウリに瑞々しいトマト。実家で食べるものに及ばないが、都会の品とは比べられない
木下ひなた
下宿先につくと、すでに台所のテーブルの半分を占める大きさの段ボールが届いていた。
木下ひなた
おばさんにお礼を言って、一緒に箱を開ける。
木下ひなた
ナスにカボチャにキュウリにトマト。隣のおじさんの畑のトウモロコシも入っている。
木下ひなた
「いつも申し訳ないねぇ」とおばさんは言う。「なんもなんも」と私が返す。いつものやり取りだ
木下ひなた
箱の奥から封筒が出てきた。いすに座って、中の手紙を読む。
木下ひなた
おとうさんのこと、じいちゃんのこと、ばあちゃんのこと。近所のおじちゃんや夏祭りのこと。
木下ひなた
一言一言を心の中で読み上げていたが、3枚目の便箋を目にして、すぐに私は電話を取った。
木下ひなた
おばさんが、キュウリを持ったまま目を丸くしているが、説明する時間も惜しかった。
木下ひなた
「もしもし、ひなただけどぉ?じっちゃ、大丈夫か?」
木下ひなた
3枚目の便箋には、近所でクマが出たこと、そして、じいちゃんが襲われかけたことが書いてあった
木下ひなた
「なんもなんもて、んだごど、心配するに決まっとるべや?」
木下ひなた
私は大きく安堵のため息をついた。
木下ひなた
きりのいいところで、おかあさんに代わってもらい、わたしもおばさんに代わって、部屋に戻った。
木下ひなた
「やっぱり、イノシシもクマもかわいいとは思えないべさ」
木下ひなた
本棚には、大阪公演のDVDが刺さっている。プレーヤーに差し込んで再生する。
木下ひなた
茜さんとロコちゃんの歌が終わり、劇が始まる。中盤、私が舞台袖から出てきた。
木下ひなた
奈緒さんのセリフが入る。「私らの親分は素手でクマが倒せるんや」
木下ひなた
……亜利沙さんから奈緒さんの台本を見せてもらったとき、私の頬はこわばった。
木下ひなた
亜利沙さんは私が緊張していると思ったようで、『大丈夫ですよぅ』と励ましてくれた。
木下ひなた
「がーーーーおーーーー」
木下ひなた
画面の中の私は両手を挙げて威嚇している。
木下ひなた
あの舞台袖、私は何度も記憶を思い出した。
木下ひなた
あの強さを、たくましさを、雄々しさを、そして、恐怖を。
木下ひなた
……公演後、奈緒さんにあれでよかったのか聞いてみた。
木下ひなた
『あかんかったわけないやろ!会場どっかんどっかんやったやん!それに』
木下ひなた
『ひなたの可愛さ、ようでとったで』
木下ひなた
気付くとDVDはメニュー画面に戻っていた。
木下ひなた
あの場面はギャップを出すところだったから、あれでよかったんだと思う。
木下ひなた
でも、本当にかわいいクマの役がきていたら、どうだったんだろう。
木下ひなた
チャンネルを変えると、動物のアニメがやっていた。赤い服を着たクマがはちみつを舐めている。
木下ひなた
明日、志保ちゃんか琴葉さんに聞いてみよう。
木下ひなた
かわいいクマを、かわいい私ではなく、かわいいクマを演じきれるように
木下ひなた
それもきっと、アイドルのお仕事だから。
(台詞数: 47)