矢吹可奈
お日様さんさん、雲はなし、風もほどほど、気温はぽかぽか。
矢吹可奈
なんにもなければ鼻歌どころか大きな声で歌って歩いているだろう。
矢吹可奈
「……はぁ」
矢吹可奈
この場に似つかわしくない大きなため息。視界の端には白い封筒。中からは地図が覗いている。
矢吹可奈
動かないといけない。分かってはいる。でも……
矢吹可奈
「……うん」
矢吹可奈
封筒を潰すように右手で握りしめ、立ち上がる。
矢吹可奈
……さっきの子も同じ封筒を持っていた。公園の真ん中で歌っていた背中まで黒い髪を伸ばした子。
矢吹可奈
「はれぇっ!?」
矢吹可奈
脚にふっさりとした感触。素っ頓狂な声に散歩中の犬がこちらを睨みつけてきた。
矢吹可奈
「黒い……猫?」
矢吹可奈
私の黄色い靴を無造作に踏みつけ見上げているのは見紛う事なく猫だった。
矢吹可奈
チェック柄の靴下に顔をこすりつけてくるその様は、飼い猫以上に人に慣れているように思えた。
矢吹可奈
「猫さん?……迷子なの」
矢吹可奈
黒猫はなーおと低く鳴いた。
矢吹可奈
「そっか、じゃあ、迷子の子猫ちゃんだね。迷子の迷子の子猫ちゃん~♪」
矢吹可奈
もう一度しゃがみ直して目線を合わせて歌を歌うと、黒猫はなーおなーおと続いてくれた。
矢吹可奈
「えへへ、ちょっとした合唱だね。猫ちゃんは首輪つけてないの?」
矢吹可奈
両脇を持って拾い上げるがそれらしきものは見当たらない。黒猫はなーおなーおと鳴き続けた。
矢吹可奈
「よーっし、それじゃあ、たくさん歌ってあげるね!まずは……」
矢吹可奈
口が、止まった。
矢吹可奈
そうだった。私はこの後、歌いに行く予定だったのだ。
矢吹可奈
右手に汗がにじむ。
矢吹可奈
黒猫はひっきりなしに鳴き続ける。私はそっと芝生に黒猫をおろした。
矢吹可奈
「……ごめんね、猫ちゃん、私、今日は歌えないんだ」
矢吹可奈
分かるはずのない人間の言葉。それでも黒猫が首を傾げたように思えた。
矢吹可奈
「でもね、明日、ううん、来週だったらきっと歌えるから!だから、また来てね!」
矢吹可奈
もう一度目線を合わせて、小さく手を振る。黒猫はサッと走っていった。
矢吹可奈
しばらく芝生を見つめ、勢いよく立ち上げると右手が涼しいことに気付く。
矢吹可奈
顔をあげるとさっきの黒猫がこっちを見つめていた。そして、その口元には……
矢吹可奈
「待って!猫ちゃん!」
矢吹可奈
駆けだす黒猫を追いかける。しなやかに走る黒猫はたびたびこちらを振り向く。
矢吹可奈
「おねがい!それ、とっても大事なものなの!」
矢吹可奈
傍から見れば独り言だ。それでも私は、黒猫に必死に呼び掛け、走り続ける。
矢吹可奈
黒猫は細い路地を進み突き当たりを左に曲がった。私は電信柱で息を整えて、大通りに飛び出した。
矢吹可奈
……黒猫は、もういなかった。
矢吹可奈
「う……うそ……」
矢吹可奈
その場にへたり込む。荒い息をあげる喉は泣き言を吐き出す余裕もなかった。
矢吹可奈
『あ、あの……』
矢吹可奈
振り向くと私より少し年上っぽい女の子がこちらを覗っていた。……さっき公園で歌っていた子だ。
矢吹可奈
『これ……あなたのですか?』
矢吹可奈
目の前に差し出されたのは白い封筒。私はひったくるように掴みとり、ギュッと両腕で抱えた。
矢吹可奈
『あなたも受けるんですね。オーディション。お互い頑張りましょう』
矢吹可奈
女の子は踵を返して歩きだす。
矢吹可奈
「あのっ!猫ちゃん、見ませんでしたか?この封筒を持っていた真っ黒の」
矢吹可奈
『……いえ。ここに落ちていただけですよ。……行きましょう。ここですよ、事務所』
矢吹可奈
そう言った少女の腰には黒い猫のキーホルダーがぶら下がっていた。
矢吹可奈
ああ、もしかしたらさっきの猫ちゃんはあの……。私は大きく息を吸う。
矢吹可奈
「私、矢吹可奈!あなたのお名前は?」
矢吹可奈
『私?私は……』
(台詞数: 50)