馬場このみ
私はペンを取ってその紙にサインをしようとして……手を止めた
馬場このみ
労働条件、給与条件、契約終了に関する条項などをもう一度読み返す……
馬場このみ
……何も罠は無い、このご時世において誠実すぎる位に誠実な契約書だと言える……
馬場このみ
ならば何も躊躇う事は無い、この契約書にサインをすれば私は晴れてアイドルデビューなのだが……
馬場このみ
いざサインをしようとすると手が止まる……余計な事を考えてしまう……
馬場このみ
かくして私は一時間前から契約書の前で延々唸っている……
馬場このみ
本来は事務で765プロに履歴書を送った私だが、手違いでアイドル候補生として応募されていた…
馬場このみ
それに気付いたときにはそりゃあ必死に抗議した物だ、話が違うと……
馬場このみ
しかし、社長の熱心な説得の末に根負けし、やってみても良いと思えて来た……
馬場このみ
そして、目の前の契約書にサインをして提出すれば全てが動き出し、後戻りは出来なくなる……
馬場このみ
この契約書にサインして、5年後10年後はどうなっているのだろう……
馬場このみ
押しも押されぬトップアイドルとして一世を風靡している?
馬場このみ
……無いとは言わないが、可能性は1%と見ても多過ぎるくらいだろう……
馬場このみ
どうしても芽が出ず、一般人に戻って慎ましく暮らしている?
馬場このみ
その可能性は決して低く無いが……そこまで悪い結末では無いだろう。
馬場このみ
元々キャリアウーマンを目指している訳では無いし、一晩の夢と割り切れるならそれは幸せだ……
馬場このみ
そして、一番あって欲しくない、それでいて一番可能性の高い結末……
馬場このみ
どうにか食べて行ける程度の収入を得つつ、いつか芽が出る日を夢見て現役を続ける道……
馬場このみ
765プロは今や専用の劇場まで構える大手プロだ、私が食べて行く隙間くらいはきっとあるだろう
馬場このみ
でも……どうにか食べて行けるだけの生活で私は何を得る?
馬場このみ
10代前半のアイドルも多い中、24歳の私が若いと言える時間は決して長くない……
馬場このみ
3年も下積みをしたらもう30代が見えて来る、そうなったら一からやり直す道はもう無いだろう…
馬場このみ
そこで夢を捨てられたらまだ良い、でも、夢を捨てられず、捨てる必然も無かったとしたら……?
馬場このみ
飛躍も後戻りも出来ない中、夢だけを糧にひたすら時間だけが過ぎて行く……
馬場このみ
その先に待つのは婚期もキャリアも夢も逃した30後半の何も無い女…他人なら最高の笑い話だが…
馬場このみ
夢を見た代償がその結末だとしたらあまりにも残酷だ、引き際を間違えてはいけない……
馬場このみ
いや、始める前から引き際を考えてどうする……そんな覚悟では成功できる物も成功出来なくなる…
馬場このみ
でも、何も考えない訳にも行かない、霞を食べて生きる訳には行かないから……
馬場このみ
私はグラスに注いであるワインを手に取り……飲まずに机に置いた。
馬場このみ
酒の勢いでサインしてしまったら絶対に後悔する……だからサインをしてから飲むと決めているのだ
馬場このみ
このサインの先にある物……夢を見た代償はきっと余りにも大きい、サインすればきっと後悔する…
馬場このみ
でも……社長に見せられたステージの輝き、そこに私も立てると言う夢を忘れる事はもう出来ない…
馬場このみ
進めばきっと後悔し、退いてもきっと後悔する……
馬場このみ
…………よしっ!
馬場このみ
……私は震える手でワインを飲み干した。
馬場このみ
夢を見るために、現実に焼き尽くされる事を選んだ愚かな私を笑うためだ……
馬場このみ
もう後戻りは出来ない、あの輝きの中に立てるなら、安定も未来も捨ててやろうじゃない!
馬場このみ
それだけの代償を払う価値はきっとある、私はそう信じてるから……
(台詞数: 38)