篠宮可憐
モグラがいた。
篠宮可憐
モグラは駅の柱にもたれかかっていた。ただただ下を向き、オドオドと眼を動かしながら。
篠宮可憐
時折パッと顔を上げるが、すぐに怯えた眼を隠すように顔を下を向く。
篠宮可憐
私はそっとモグラの隣に立ち、バッグから小瓶を取り出す。薄い紫色の液体が入った小瓶。
篠宮可憐
ノズルを押して、自分の手首に吹きかける。
篠宮可憐
モグラはパッとこちらを振り向いた。丸くしたその目は私の顔をしかと捉えていた。
篠宮可憐
私はモグラを近くのベンチに座らせて、缶のホットココアを手渡す。
篠宮可憐
モグラは私の目を見て、お礼を言った。一つ安心する。
篠宮可憐
モグラがココアに口を付ける。白く甘い息が笑みとともに零れた。
篠宮可憐
「怖いんだよね?」
篠宮可憐
私の言葉にモグラはこちらを向く。
篠宮可憐
「人と会ったり、話したりするのが、怖いん……だよね?」
篠宮可憐
カバンからタンブラーを取り出す。ふたを開けるとハーブティーのほのかな香りが広がった。
篠宮可憐
「その反応なの、私が、気づいたのは。匂いに敏感なんじゃない…?」
篠宮可憐
モグラの顔が驚きの表情のまま固まっている。私はゆっくりとタンブラーに口を付ける。
篠宮可憐
「初めて会う人って変な匂いがしない?……うん、そうそう、ちょっと苦いピリピリした匂い」
篠宮可憐
「……うん、そうだよね。家族や友達はそうじゃないよね。甘くて暖かくて、あっ」
篠宮可憐
急に目の前に老人が現れた。目端に移る影が小さくなる。
篠宮可憐
「……あなたは、どうしたいの?」
篠宮可憐
老人にトイレの場所を教え終わると、座ったまま硬く縮こまっているモグラに話を向けた。
篠宮可憐
「……そう、このままでいいんだ」
篠宮可憐
モグラは俯いたまま脚をブラブラとさせている。
篠宮可憐
「……あのね、私、こう見えてもアイドルをやっているの。知ってる…わけないか」
篠宮可憐
「……うん、なんでアイドルになったのって思うよね」
篠宮可憐
ふと、周囲の雑踏が小さくなった気がする。
篠宮可憐
「ちゃんと見たくなったの」
篠宮可憐
「恥ずかしくていつも下ばかり見てたら、モグラみたいに匂いに敏感になっちゃって」
篠宮可憐
「匂いだけで良い人か悪い人か判断するようになって。そんなわけないのにね」
篠宮可憐
私はハーブティーを一口すすった。
篠宮可憐
「ある日ね、真っ黒な男の人に誘われたの、アイドルにならないかって」
篠宮可憐
「悪い匂いはしなかったからかなぁ。フラリとついて行って、レッスンを見せてもらったの」
篠宮可憐
「あんな匂いは、ううん、あんな香りは初めてだった」
篠宮可憐
「甘さも苦さも酸っぱさも何もかもが入り混じっていた。でも、とてもいい香りだった。なにより」
篠宮可憐
「みんな、キラキラしてた」
篠宮可憐
モグラは顔を下げなかった。
篠宮可憐
「あなたや私が思っている以上に、見えるものは悪くないのかもね」
篠宮可憐
遠くから女の子の名前を呼ぶ女性の声が聞こえてきた。
篠宮可憐
「お迎えかな。そうだ、これを」
篠宮可憐
私はカバンからチケットを渡す。
篠宮可憐
「私、今度のライブに出るの。見に来て、応援してくれたら嬉しいな。それと」
篠宮可憐
「これは私からのプレゼント。辛い時に嗅ぐと落ち着くから」
篠宮可憐
モグラは、いや、少女は母親に連れられて帰っていった。
篠宮可憐
一度こっちを振り返って手を振ってくれた。私も小さく、手を振った。
篠宮可憐
「……プ、プロデューサー!い、いつからそこにいたんですかぁ」
篠宮可憐
「え、ええっ、ココアを買ってあげたところからってほとんど全部じゃないですか」
篠宮可憐
「いえ……でも声をかけていただかなくて正解でした。あの子、びっくりしちゃったでしょうから」
篠宮可憐
「……そうですね。きっと大丈夫だと思います。」
篠宮可憐
「……そ、そんな、茶化さないでください!」
篠宮可憐
「決めたんです。まだまだ地味で気も弱い私ですけど」
篠宮可憐
「ちゃんと目を開くんだって。前を見て、明るい光を目指して生きていくんだって」
(台詞数: 50)