田中琴葉
「プロデューサー、桃子ちゃんは……」
馬場このみ
「時間はかかったけど大丈夫よ。それで、育ちゃんの方は?」
田中琴葉
琴葉ちゃんは胸の前の手をぎゅっと握ったまま首を横に振り、すみませんと謝った。
田中琴葉
「なんとか話をしようとしたんですけど、あのとおりじっと俯いたままで」
馬場このみ
「ありがとう。あとは任せて」
馬場このみ
琴葉ちゃんの肩をポンと叩いて、育ちゃんの元へ歩みを進める。
中谷育
レッスンルームの鏡の前。育ちゃんはじっと俯いている。
馬場このみ
背丈なんてとっくに追い越されているのに、その背中はミックスナッツの頃を思い出させた。
馬場このみ
「少し、いいかしら。さっきのことだけど」
馬場このみ
育ちゃんはピクリとも動かない。
馬場このみ
「桃子ちゃんは育ちゃんのことをプロ向きじゃないって言ってたけど――」
中谷育
「大丈夫……分かってるから」
馬場このみ
育ちゃんは絞り出すように声を出すと、顔を上げて大きく息を吐きだした。
中谷育
「自分の方向性が分かんなくなった時点で、うすうす気づいてた」
中谷育
「みんなスポーツコーナーを持ったり、モデルになったり、ドラマの主役になったり」
中谷育
「自分の得意なことや好きなことを伸ばしていって、どんどん有名になって」
中谷育
「でも……私は何も伸ばせなかった」
中谷育
育ちゃんは両手をだらんとぶら下げた。足元のバッグからレッスンウェアが見える。
田中琴葉
「そんなことないよ。育ちゃんの演技は育ちゃんだけのもの。そこを伸ばしていけばいいじゃない」
馬場このみ
いつの間にか後ろに来ていた琴葉ちゃんが育ちゃんの背中に声を投げる。
中谷育
「私だけの演技……そうかな?」
田中琴葉
「ええ!だから、自信を持って」
中谷育
「じゃあ……なんで私は主演になれないの?」
馬場このみ
育ちゃんの重い言葉が私たちの肩を震わせる。
馬場このみ
確かに育ちゃんは多くのドラマの仕事をこなしていた。レギュラーも何本かあった。
馬場このみ
でも、主役を勝ち取っていたのは、育ちゃんではなく……。
中谷育
「桃子ちゃんはずっと思っていたんだろうね。私は演技はもちろんアイドルにも向いていないって」
中谷育
「それなのに、私と一緒にドラマをやってくれるなんて。ホント優しいなぁ」
馬場このみ
育ちゃんがゆっくりとこちらを振り向く。
馬場このみ
その両目に溜められた涙は筋となって頬を伝い、足元のレッスンウェアにいくつもの染みを作る。
馬場このみ
そして、口の端に微笑みを作って、ゆっくりと口を開いた。
中谷育
「ねぇ、このみさん。わたし、アイドルを――」
馬場このみ
「ダメよ」
馬場このみ
私はきっぱりと育ちゃんの言葉を遮る。育ちゃんは口を開けたまま私を見ている。
馬場このみ
「育ちゃんが今決めようとしていることは、あなたの意志じゃない。感情に流されているだけ」
馬場このみ
「こんなことでサヨナラだなんて、もし社長が許したとしてもお姉さんは許さないわ!」
中谷育
「でも、桃子ちゃんは私をプロ向きじゃないって」
馬場このみ
「だったら、そうじゃないって証明してみましょう」
馬場このみ
私はカバンからタブレットを取り出し、育ちゃんに差し出した。
馬場このみ
「舞台での主役のお仕事が来てるわ。うちの事務所から一人オーディションに出す予定」
田中琴葉
「こんな仕事……いつの間に」
馬場このみ
「ついさっきよ。年齢的に桃子ちゃん、育ちゃん、環ちゃんが対象となるわ」
馬場このみ
「ただ、環ちゃんは長期ロケが入っている。つまり、育ちゃんと桃子ちゃんのどちらかというわけ」
田中琴葉
「桃子ちゃんが間違っていると証明するなら、演技で桃子ちゃんを超えないとってことですか」
中谷育
「桃子ちゃんと……勝負……」
中谷育
育ちゃんの目には明らかな動揺の色が浮かんでいる。
馬場このみ
「私が知っている育ちゃんは本物のプロ根性を持っていた。それがたった5年で変わるものですか」
馬場このみ
「見せてちょうだい、"アイドル・中谷育"のプロ根性を」
馬場このみ
私の発破に、育ちゃんは何も答えてくれない。
中谷育
ただ、その目をみると動揺は薄れ、代わりにチロリと炎が灯ったように感じた。
(台詞数: 50)