七尾百合子
「のり子さん、今、劇場出たそうです。あと10分ぐらいですかね?」
高山紗代子
「そっか。……ごめんね、迷惑かけて。せっかくの打ち合わせが」
七尾百合子
「気にしないでください。まさか荷物に紛れてメガネが劇場に行っちゃうなんて誰も思いませんし」
高山紗代子
「でも、あの時、うたた寝なんてしなければこんなことには」
七尾百合子
「ほーら、紗代子さんらしくないですよ!遅れた打ち合わせの分はあとで精一杯頑張りましょう!」
高山紗代子
紅茶のおかわり持ってきますね、と百合子らしき輪郭が席を立った。
高山紗代子
「……はぁ、これじゃあ、ただの足手まといだよ」
高山紗代子
溜息を一つついて事務所のソファに背中を預けて独り言ちるが、すぐに頭を振った。
高山紗代子
この状態でも何かできることはあるはずだ。とりあえず書き出してみよう。
高山紗代子
と、バッグから手帳を取り出そうとしたけれど、肝心のバッグが見当たらない。
七尾百合子
「紗代子さん、もしかしてバッグをお探しですか?こちらですよ」
高山紗代子
戻ってきた百合子にバッグを渡される。……ホントに情けない。
七尾百合子
「でも、そんなに見えないのに、ステージで誰かとぶつかったりしませんよね?」
高山紗代子
私の前に紅茶を置きつつ、百合子が質問する。
高山紗代子
「どこに誰が来るか分かるからね。ほら、ステージだとみんなの動きは決まっているでしょ?」
高山紗代子
紅茶に指を入れてしまわないよう、おずおずとカップを掴む。ぬくもりがじんわりと手に広がった。
七尾百合子
「えっ、あの……紗代子さんって全員分の動きを覚えてるんですか?」
高山紗代子
「まさか。全員は無理だよ。同じステージに出る人の分で精一杯」
七尾百合子
「……なんか、紗代子さんのすごさを改めて知った気がします」
高山紗代子
「……すごくは、ないよ」
高山紗代子
何のスイッチが入ったのか分からないが、私の口がそう呟く。
高山紗代子
「だって、弱気に負けちゃうからステージでメガネを外しているんだもの。不要な努力だよ」
高山紗代子
そう、メガネを外すことに頼らずに堂々とステージに立てれば、この努力を別の方向へ向けられる。
高山紗代子
それが分かっていてできない自分が、もどかしい……。
七尾百合子
「ホント、今日の紗代子さんは紗代子さんらしくないですね」
高山紗代子
ため息と一緒にカップを置く音が聞こえる。
七尾百合子
「いいですか?紗代子さんという人は今できることを全力で努力して結果を出す人です」
七尾百合子
「メガネを外さないとステージに立てない。その状態でできることを探して最善を尽くしている」
七尾百合子
「いえ、最善以上です。それをすごいと言わなくてなんと言えばいいんですか!」
高山紗代子
一気にまくしたてる百合子を私は紅茶を持ったまま呆然と見つめていた。
七尾百合子
「あ、すみません。つい興奮して……」
高山紗代子
「ううん、ありがとう。今日の私、やっぱりおかしいみたい」
七尾百合子
「メガネが戻ればいつもの前向きな紗代子さんになりますよ」
高山紗代子
「ふふ、いつもはメガネを外して弱気を捨てているのに。おかしいね」
高山紗代子
2人で笑いあうと、事務所のドアが勢いよく開いた。
七尾百合子
「あ、のり子さん、こっちです!」
高山紗代子
百合子の声につられてのり子さんらしき人影がこちらへ近づき、私の手のひらにメガネを置いた。
高山紗代子
黒縁のセルフレーム。摘まみなれた質量に喜びを感じつつ、そっとかける。
高山紗代子
閉じていた目をゆっくりと開ける。先ほどまでぼんやりとしていた世界が輪郭を取り戻してゆく。
七尾百合子
「どうですか?……って、聞くまでもないですね」
高山紗代子
照れた笑いを見せる百合子に、つられて笑うのり子さん。私も思わず笑みをこぼす。
高山紗代子
「さぁ、それじゃあ、打ち合わせを始めようか」
七尾百合子
「えっ、もうですか!?もう少しゆっくりしてからでも」
高山紗代子
「ダメだよ!時間は待ってくれないんだから!」
高山紗代子
泣きそうな顔を見せる百合子と声を上げて笑うのり子さんをよそに私はそっと目を閉じた。
高山紗代子
まぶたの裏に浮かぶのは会場いっぱいの薄紫色のコンサートライト。
高山紗代子
それはまるでファンの頭上に広がる紫色の雲のように見える。
高山紗代子
今はまだメガネを外さないといけない。でも、普段のままでステージに立てるようになって……
高山紗代子
紫色の雲が徐々にばらけていき、まるで花が開くように一本一本広がっていく。
高山紗代子
……本当の光を私は手に入れてみせる。
(台詞数: 50)