七尾百合子
「“あなたと本と音楽と”。今宵もあなたの耳のお相手は七尾百合子でした。それではまた来週」
七尾百合子
紅茶の湯気が消えるように、ラジオからの音楽が徐々に小さくなっていく。
七尾百合子
私はノートに走らせていたペンを止めて、大きく伸びをした。
七尾百合子
毎週木曜日のこの時間。いつの間にか自分の声を聴きながら手を動かすことにも慣れてきた。
七尾百合子
グッと止めた息を大きく吐きだすと、勉強机の端においたスマホに明かりが点いた。
七尾百合子
『ゆりゆり、今日もおつかれ~』
七尾百合子
いつもの時間に、いつもの内容。毎回欠かさず聞いてくれる友人には感謝してもしきれない。
七尾百合子
今回紹介したのは青春群像劇。「ちょっと興奮しちゃったけど、どうだった?」と聞いてみる。
七尾百合子
メールでリスナーさんから感想はもらえるが、タイムリーにもらえる感想は貴重だ。
七尾百合子
ただ、タイムリーといっても返信が来るのにはもう少し時間がかかる。なぜなら私の友人だからだ。
七尾百合子
紅茶で口を潤わせて、私はシャーペンを握り直す。
七尾百合子
別のノートを開き、シャーペンを3度ノックする。ラジオからは音が流れ続けている。
七尾百合子
「夢に向かって、がんばれ、みんな!」
七尾百合子
急に自分の声が飛んでくる。先日収録したCM、今日からオンエアだったんだ。
七尾百合子
他にも紗代子さんや琴葉さんも声を録っていたのに、私のCMが流れるなんてタイミングが悪い。
七尾百合子
「なりたい自分へ!負けるな受験生!」
七尾百合子
(……七尾ちゃんさぁ、本当にそれで励ましているつもり?)
七尾百合子
呆れたディレクションの声とペンで頭を掻く姿がフラッシュバックする。
七尾百合子
(……いいよ、それで)
七尾百合子
トークバックから漏れ聞こえるため息の音。思い出すだけで、喉の奥が苦くなる。
七尾百合子
私は大きく息をついて、カップを手に取った。悩んでいる時間があれば手を動かさないと。
七尾百合子
そう思って紅茶をあおろうとしたが、ほとんど入っていない紅茶ではモヤモヤは飲み込めない。
七尾百合子
ペンを握り直すことができないまま、時間だけが過ぎていく。ラジオの音がにじんだ部屋に響く。
七尾百合子
『ゆりゆりが暴走しているのはいつものことでしょ?(笑)今回良かったのはねー……』
七尾百合子
私の悩みを知らないスマホが、薄暗い部屋をポッと明るくする。
七尾百合子
こういうとき、声じゃなくて文字というのは、余計な心配をかけずに済むので助かる。
七尾百合子
『……で、思ったんだけどゆりゆりって本棚っぽいよね』
七尾百合子
長々と続いた文章の最後によく分からない問いかけ。本みたいと言われたことはあるけど……。
七尾百合子
『ほら、本は一つの話しかないじゃない?でも本棚はたくさんの本の見せてくれる。そういうとこ』
七尾百合子
たくさんの本を見せる……。
七尾百合子
それって私がしゃべっているのは本の言葉で、私の言葉じゃないということ……?
七尾百合子
(……七尾ちゃんさぁ、本当にそれで励ましているつもり?)
七尾百合子
ディレクターさんの言葉がリフレインする。私は机の隣の本棚に目を向けた。
七尾百合子
太宰、トールキン、ブラッドベリ。人見知りを直す方法以上のことを教えてくれた本たち。
七尾百合子
今の私を作ってくれたのは本だ。それは間違いない。そして、私の話す言葉を作ったのも本だ。
七尾百合子
ラジオから軽快なジングルが流れ、CMが始まる。
七尾百合子
「夢に向かって、がんばれ、みんな!」
七尾百合子
……違う。私は私だ。自信を持って言える。私がしゃべっている言葉は本の言葉なんかじゃない。
七尾百合子
「なりたい自分へ!負けるな受験生!」
七尾百合子
私は確かに本棚かもしれない。私は本から貰った驚きや感動、ドキドキやワクワクを伝えている。
七尾百合子
でも、ただの本棚じゃない。
七尾百合子
私の経験した日常、読んできた非日常、手に入れた言葉、発してきた音。
七尾百合子
それら全てを私の心と頭でアレンジした、アイドル・七尾百合子という本棚だ。
七尾百合子
私は友人に「ありがとう」とだけ返事を打ち、ノートに向き直った。
七尾百合子
CMが終わり、ラジオからゆったりとした音楽が流れる。私はまたペンを走らせる。
七尾百合子
次のチャンスがあるなら、必ず私を伝えてみせる。分かりやすく、それでいて強烈に。
七尾百合子
そしたら私は次の世界へ進むことができるはずだ。非日常を読む、その向こう側へ。
七尾百合子
私は大きく息をついてペンを止めた。そして、ノートに書かれた文字をじっと見る。
七尾百合子
この物語は私の手によっていつか終わりを迎える。そして、その時私は本棚を超え、本になるのだ。
七尾百合子
世界に一冊しかない、アイドル・七尾百合子という本に。
(台詞数: 50)