最上静香
「…あ、愛?」
最上静香
あまりに予想外の言葉が飛び出してきて、私も恵美さんも言葉を失ってしまった。
四条貴音
「…滑稽に聞こえるかもしれませんが、これは冗談ではないのですよ。」
最上静香
私たちをたしなめるようにして、貴音さんは話を続ける。
四条貴音
「先程も申しましたが、『超越』の苦痛とは、肉体を保護するための防衛本能の産物。」
四条貴音
「ならば、これは危機ではない、保護など必要ないと、肉体自身に思わせればよろしい。」
四条貴音
「強い情動をもって、脳を幸福感で満たすことによって、それが可能となるのです。」
最上静香
「…その情動というのが、愛ですか?」
四条貴音
「その通りです。愛以外で、何が代わりとなり得ましょうか。」
最上静香
話としてはわかるようなわからないような。ただ、愛と言われると…何か変な感じ。
四条貴音
「…ふむ。愛と言えば、男女の愛や家族愛を思うので、奇妙に聞こえるのかもしれませんね。」
四条貴音
「わたくしとしては、もっと広範なものを言っているのですが…。」
四条貴音
「ともあれ、それを今回の出場者の中で最も体現しているのが、静香。あなたなのですよ。」
最上静香
「私…?」
最上静香
何か…私が特別なことをしたことがあったかしら?
最上静香
ただ、自分なりにできることを、謙虚に、一生懸命にやってきただけのつもりだったけど…。
四条貴音
「歌は訴えるから生まれた言葉とのこと。歌を聞けば、歌い手の心も見えてくるものです。」
四条貴音
「予選の『GO MY WAY!!』は、未来への憧憬と優しさ…親愛に満ちていました。」
最上静香
…そういえば。未来のことを思って歌ったあのとき、今までにない充実感があった。
四条貴音
「『Precious Grain』は、紗代子への感謝と尊敬…敬愛に溢れていました。」
最上静香
あの勝負は、自分のすべてをぶつけあうような激しさがあったのに、むしろ爽快感が残った。
最上静香
どちらも苦しい場面のはずだったけど、心には楽しい記憶として残っていて。
最上静香
そして両方とも、今の自分にできる最高のパフォーマンスを引き出せたと思う…。
四条貴音
「…静香自身にも、少しは覚えがあるようですね?」
四条貴音
「まだ『超越』にはほど遠く、引き出す力もわずかですが、すでにその芽生えは始まっています。」
四条貴音
「ですから、わたくしも助力としては、ほとんどすることが無いのですが…。」
四条貴音
「せめてもの餞(はなむけ)として、絶望を払い希望を示す言葉を、あなたに差し上げましょう。」
最上静香
貴音さんは、こちらを正面から見据えて。
四条貴音
もし、あなたがさらなる限界に挑み、その身を苦痛が切り付けるとき、思い出しなさい。」
四条貴音
「あなたは多くの愛によって、守られ、癒され、支えられ、恵まれているのだと。」
四条貴音
「その喜びを胸に抱いたとき、あなたを阻む茨の門は、必ず開かれるでしょう。」
最上静香
貴音さんの言葉は、私にとってまだ実感に乏しかったけれど。
最上静香
それはまるで予言のように、私の心に刻みついた。
四条貴音
「静香にはこれで十分です。さて…。」
最上静香
貴音さんは、私から視線を外して恵美さんを見る。
最上静香
恵美さんは、目に強い光をたたえながら、貴音さんの言葉をじっと待っていた。
四条貴音
「…わたくしは道を示しましたが、そこに琴葉を導くのは、わたくしの役目ではありません。」
四条貴音
「恵美や『ばあにんぐがある』の仲間など、琴葉と縁が深い者がそれを成すことになるでしょう。」
最上静香
貴音さんの話に、恵美さんが力強くうなずく。
所恵美
「…それで、アタシたちは何をすればいい?」
最上静香
尋ねた恵美さんには答えずに、貴音さんはこちらを向いた。
四条貴音
「静香。わたくしから呼び出しておいて勝手ですが、席を外していただけますか。」
四条貴音
「…ここからは、複雑な話になりますので。」
最上静香
私は、貴音さんの申し出を勝手だとは思わなかった。
最上静香
貴音さんは恵美さんを立ち合わせることで、琴葉さんにも救いがあると、私に教えてくれた。
最上静香
そして恵美さんにことの始まりを聞かせなかったように、私に聞かせられないこともあると思う。
最上静香
「…それでは。」
四条貴音
「はい。準決勝を楽しみにしていますよ。」
最上静香
部屋を出て、パタンと物置部屋のドアが閉まる音を背にして。
最上静香
この思いがけない時間の価値を考えながら、私はレッスン室へと戻った。
(台詞数: 50)