四条貴音
今日が霞み、消えゆく正子。
四条貴音
獸は未だ帰らぬ主人の身を案じて、ひっそりと部屋で涙を流していました。
四条貴音
獸は捨て子でした。打ち付ける雨の中、残り幾許もない命を燃やし、震えていたのです。
四条貴音
思い返せば、遭逢は突然。
四条貴音
突然――雨が止みました。
四条貴音
見上げれば、人間が傘を寄越していたのです。
四条貴音
ですが獸は受け取る術を知りません。
四条貴音
人間は獸を抱き上げました。
四条貴音
泥に塗れた我が身を気にする素振りもなく、抱えて歩き出したのです。
四条貴音
抵抗はしませんでした。半ば諦めていたのかもしれません。
四条貴音
人間は獸に語りかけました。
四条貴音
他愛のない話です。
四条貴音
ですが――優しい音でした。
四条貴音
人間から伝わる体温が、獸の心に小さな火を宿しました。
四条貴音
信念、或いは決意でしょうか。小さくとも力強い灯火。
四条貴音
今まで自分の為に燃やしていた命。今度は誰かの為に、と。
四条貴音
獸は家族という言葉を知ります。
四条貴音
今まで白黒だった日々が色付いていきます。
四条貴音
暖かい家、美味なご飯。安らげる寝床。寒い日は互いに寄り添って過ごしました。
四条貴音
まるで夢のような、素晴らしき日々。
四条貴音
ですが獸は、心の奥底に沈んだ残滓を拭いきれずにいました。
四条貴音
夢とは……やがて醒めるもの。
四条貴音
恐れていたのです。
四条貴音
離別というものを、何よりも恐れていたのです。
四条貴音
夜が来る度、朝が来る度、胸が締め付けられる思いでした。
四条貴音
日毎に寂しさは増し、やがて階段を上がる音や玄関の錠が開く音を好むようになりました。
四条貴音
それでも人間……いえ、主人の姿を認めれば、ちらつく暗影も払拭されたものです。
四条貴音
而して順風満帆、平穏無事に日々を保っていました。
四条貴音
ところが、ある雨日のこと。
四条貴音
辺りはとっくに暗くなっているのにも関わらず、主人は一向に戻りませんでした。
四条貴音
時計を見れば、主人に教わった唯一の形――針は「就寝」を指していました。
四条貴音
暗い部屋がより一層暗く感じました。
四条貴音
春だというのに寒く、虚しい。
四条貴音
やがては感情を抑えきれず、溢れ出てしまいました。
四条貴音
獸は虚無を知りました。
四条貴音
静かに響く嗚咽だけが、独りきりの部屋を支配するのです。
四条貴音
――だから、でしょう。"好きな音"が聞こえなかったのは。
中谷育
――。
四条貴音
声を失いました。
四条貴音
それはあまりにも唐突で――忘れてしまっていたのです。
四条貴音
獸が在りました。"私"のすぐ後ろに。
四条貴音
泥に塗れた、小さな、小さな命が。
四条貴音
「新しい家族だぞ。」
四条貴音
いつぞやと同じ。びしょ濡れになりながらも朗らかに、主人はそう言って笑ったのです。
中谷育
――。
四条貴音
「寒さ」か「怯え」か、震える小さき獸。
四条貴音
その姿に或りし日の自分が――重なりました。
四条貴音
私は、獸を優しく抱きしめてみました。
四条貴音
その冷たさが、かつての獸に家族の意味を教えたのです。
四条貴音
かけがえのない、大切なものだと。
(台詞数: 50)