田中琴葉
「先輩」
田中琴葉
後輩の呼び掛けに現実に引き戻される。
田中琴葉
彼女の名前は田中琴葉。
田中琴葉
演劇部の一つ下の後輩だ。
田中琴葉
この夏、俺たち三年生は最後の舞台を終えると、そのまま受験に備えて引退になる。
田中琴葉
俺たちが引退してからは、きっと彼女を中心にこの部は回っていくんだろう。
田中琴葉
夏の舞台では彼女がヒロインとして、一緒に舞台に立つことになっている。
田中琴葉
「先輩、ぼ~っとしてますけど、大丈夫ですか?」
田中琴葉
ああ、大丈夫だ、なんてことはないと素っ気なく返事をする。
田中琴葉
すると、それでは役作りの続きをしましょうと彼女は提案をしてきた。
田中琴葉
まるで予定調和のような会話の転がり方だ。
田中琴葉
役作りといっても、とくに何か特別なことをする訳ではない。
田中琴葉
ただ、傍にいるだけだ。
田中琴葉
今年の夏、俺たち二人は、秘かに互いの思いを寄せ合う後輩と先輩を演じることになっている。
田中琴葉
全く、脚本家はなにを考えているのやら…
田中琴葉
放課後、毎日のように訪れる気まずい時間には未だに慣れない。
田中琴葉
これは疑似恋愛のようなものだと割り切れればどれほど楽なものか…
田中琴葉
「先輩、今日は暑いですね」
田中琴葉
今日は、じゃなくて…今日も、だろと言い返すと、そうでしたと微笑み返される。
田中琴葉
夕焼け色に染められたその表情には、少しドキッとさせられた。
田中琴葉
役作りのせいか、胸の鼓動がやけに早く感じる。
田中琴葉
正直に打ち明けると、彼女の役作りに対するストイックな姿勢が俺は好きだ。
田中琴葉
だからこそ、彼女の微笑みに魅了されて、圧倒されてしまう。
田中琴葉
「先輩、顔、赤いですよ」
田中琴葉
「どうかしたんですか?」
田中琴葉
どうもなにも、君のせいだとは口が裂けても言えないだろう。
田中琴葉
夕方だから、陽に当てられてそう見えるだけだろう。
田中琴葉
そんな下手くそな見え見えな嘘をつきながら、平静を装ってみせる。
田中琴葉
「なんだかいつもの先輩らしくないですね」
田中琴葉
いつもの俺ってなんだよ。
田中琴葉
俺が不服そうに言うと、君は少し間をおいてから、はにかんで笑ってみせる。
田中琴葉
「ナイショです」
田中琴葉
彼女は続ける。
田中琴葉
「私、先輩のことならなんでも知っていますよ」
田中琴葉
彼女の口から出てきた、その意味深な発言は、役作りの一環なのか…
田中琴葉
それとも彼女自身のホントウの言葉なのか、俺はもう混乱していていよいよわけがわからない。
田中琴葉
なあ…なんでもって…
田中琴葉
少し言いかけて、俺はその言葉を飲み込んだ。
田中琴葉
「先輩はわかりませんか?」
田中琴葉
わるい、わからない、と正直に打ち明ける。
田中琴葉
「そうですか…」
田中琴葉
彼女は残念そうな顔を浮かべて、ため息を吐くようにそう溢した。
田中琴葉
彼女には悪いことをしてしまったと今更ながらに反省をする。
田中琴葉
「先輩が見てくれるのは、いままで見てくれたのは演じる私ですよね」
田中琴葉
「きっと、最初からずっと…」
田中琴葉
「ホントウノワタシのことなんて見てくれているはずないですよね」
田中琴葉
彼女の口から溢れた本音は、地面に落ちる一粒の涙と共に砕けては、散っていく。
(台詞数: 47)